あとがき
音楽家が音楽家として勝負するのであれば、それは音楽によってでなければならないだろう。その意味で、このあとがきにおいて、私は音楽家としての勝負から降りていることになる。しかし、そのような勝負よりも大切なことが今の私にはあり、「音楽は言葉では表現できないことを表現することができる」という使い古されたフレーズが正しいように、「言葉は音楽では表現できないことを表現することができる」ということもまた同じくらい正しいと信じているのである。
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一方で、初音ミクは風のようである。
初音ミクは風のように透明である。初音ミクは、ある時には科学の限界を超えてやってくる。ある時にはネギを振り、ある時には世界で一番おひめさまなのである。公式設定は「年齢 16歳、身長 158cm、体重 42kg、イメージカラー ブルーグリーン」と非常にミニマルなものだし、もっと言えば、この設定すらもしばしば無視される。初音ミクは透明であるから、ほとんどの特徴づけを受け入れ、そしてそれはつまり、ほとんどの特徴づけが意味をなさないということである(よってこのことが正しければ、以下私が述べることもまた、初音ミクの一側面でしかないし、どのくらい意味があるのかも定かではない)。
初音ミクは風のように意味を持たない。「風が語りかけている」と誰かが述べたとすれば、それは擬人法である。嵐を告げる風が吹いたとすれば、たしかにそれは何らかの意味を持っていると言えそうだが、私たちが日々交わしている意味と比較すれば、それはとても貧弱な意味でしかない。初音ミクは人ではなく、人が意味を持っているのと同じようには意味を持たない。
他方で、初音ミクは声のようである。
初音ミクは声のように意味を持つ。私たちが声で、文字で、表情でやり取りするような意味を、初音ミクは持つ。先に言ったことと矛盾するようだが、少なくともたしかに私にはそうとも感じられるのである。
初音ミクは風のような声のような音である。
初音ミクは音であり、それは意味を持たない世界と意味を持つ世界の重なる場所にいる。時にはシンセサイザーとして扱われ、時にはフィクショナルキャラクターとして扱われ、時にはボカロPの分身として扱われ、それらは同じ初音ミクとして扱われる。そしてそれは、ただの音でもある。風のような音であり、声のような音であり、風のような声のような音なのである。
そしておそらく、本当は、私もあなたもそうなのである。豊かな意味で、理由で、規範で満ちた世界と、意味も、理由も、規範もない、ただ物理法則に従うのみの世界とが重なる場所に、私も、あなたもいるのである。目の前にハエが飛んで来たら舌を出すカエルのように、私たちは特定の特徴を持った音を聴いたとき、ある意味で反射的に笑い、泣き、踊るのである。しかし、それは本当の笑顔で、本当の涙で、本当の踊りでもあるはずなのである。
私が、あなたが、世界がそうあるということを、初音ミクは体現していると思う。そして、そのような世界でどのように生きていくべきかを私に教えてくれるのもまた初音ミクであり、ボーカロイド文化であると思う。
初めは初音ミクでなくてもよかった。何となくなじみがあって、10年代後半において歌ものを一人で作るのに都合がよかったというだけである。別にボカロでなくてもよかったし、本当は音楽でなくてもよかったのだと思う。しかし『風のような声のような』というこの作品は、音楽という形をとらなければならなかったし、ボカロでなければならなかったし、初音ミクでなければならなかったのである。少なくとも私にとってはそうなのである。
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この作品はひどく個人的なものであると思う。思うだけで、どのように受け取るかは基本的にあなたにゆだねられている。私は、見えない大衆の心や体を刺激するために音楽を作ってはいない。私は、かけがえのない私に刺さるように音楽を作っているのであり、もしあなたに私の音楽が刺さったのだとすれば、それは、実体のない大衆の、かえのきく一構成員としてのあなたではなく、かけがえのないあなたに刺さったということのはずである。越えることのできない断絶がある私とあなたの間に、共通項があったということのはずである。そうだと信じたいのである。もしそのようなことがあったとすれば、それは私にとって何事にもかえがたい喜びである。
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最後に、ここまで言葉を積み上げてきたことそれ自体をひっくり返すようで申し訳ないが、私にとって音楽は、基本的には単に楽しいものである。「何も考えずに音に合わせて踊っていれば楽しくなれる」という側面が入り口としてあり、そこにおいて言葉は聞き流されるかもしれないが、しかしそれは、決してその先にある何かに劣るものではないと思う。
時に風を浴びるように、時に声に耳を傾けるようにしてくれれば、それが一番私の意図に沿った楽しみ方であり、そしてその意図は無視されても構わないものなのである。
2024年4月 コサメガ